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イギリス旅行記−第1部−

経済学科217020055 太田 翔

 

 

 2003年夏、沖縄。

「わー11月からロンドンに留学すること決まったさー。」

「ほなら大ちゃんがロンドンおる間にわしらイギリス遊びにいこか!?」

「ええの〜!」

テキスト ボックス:  
左から秋山さん、私、馬場さん
上段内藤ゆきこ 沖縄渡嘉敷島にて


このなんとも適当な会話が今回のイギリス旅行の第一歩であった。私はこの時、沖縄・渡嘉敷島のとかしくマリンビレッジで夏季限定の住み込みバイトをしていた。上記の会話は、その時にオーナーの息子である大ちゃんこと、□□・私・私と同じく夏期バイトをしていた松村彰太の間で交わされたものである。みての通りいい加減極まりない会話であり、正直なところ私は当初この会話通りイギリス旅行が実現するとはつゆとも思っていなかったのだが、ある日彰太からイギリス

までの往復の航空券が5万で手に入るとの報を受け、この後あれよあれよという間にイギリス行きが決定したのであった。また、この間に同じく夏期バイトの内藤ゆきこ・岩瀬由佳も旅行に参加することになった。ここで4人がだいたいどういう人間かをかいつまんで説明しておく。

テキスト ボックス:  
大ちゃんと内藤ゆきこ ホラー映画のようだ
内藤ゆきこ・24歳。以後ユキさん。完全に女を捨てた逸材。ある意味立派である。こんなことをいうと、「一見女を捨てているようにみえる女性でも実はとても女らしい一面を持っていたりするものだ。」と思われるかもしれないが、この内藤ゆきこに関していえばそれは間違いであることは断言できる。そのことは写真を見て頂ければ大体お分かり頂けるだろう。楽器に例えると打楽器。

 岩瀬由佳・24歳。以後ゆかさん。笑顔の絶えないすてきな人である。ワーキングホリデーでカナダに留学中で、カナダからイギリスに合流。ちなみにこの留学が終わると渡嘉敷島に永住するつもりらしい。ユキさんと仲良し。

 □□・21歳。以後大ちゃん。しょうもない嘘をつき人を驚かす事を生き甲斐とする。毎日がエープリルフールである。オーナーの息子であり、とても人あたりがよい。

 松村彰太・20歳。以後彰太。いつもやる気なさそうに見えるが、ちょっとしたイケメン男。ときにすごい行動力を発揮する。渡嘉敷では私はいつも彰太と島を探索しにいったものである。ちなみにこの男は協調性というものがほとんどないが、どうも私もそう思われているようである。

 


では、イギリス旅行での出来事について、無事ヒースロー空港に着いたところから書いていきたいと思う。

   ロンドン

 無事にヒースロー空港についた私・彰太・ユキさんは、迎えに来てくれているはずの大ちゃんの姿を探すが見当たらず、電話もいっこうに通じないため、まず最初に何をしたらよいのかわからずてんで途方にくれてしまった。到着時刻が夜の8時だったため、宿をとらなければならないのだが、3人とも初めての海外であるため初日は大ちゃんが手本を示してくれる手筈だったのである。「大ちゃん、もしかしてこの電話番号も嘘なんちゃうか。」などとユキさんと彰太は話していたが、私はロンドン留学の話そのものが嘘だったのではないかと疑い始めていた。いつまで待っても大ちゃんは来ない、という気が猛烈にしたので、自分たちで宿をとろうということになったら、意外と何とかなるもので、空港のホテル予約センターであっさりとロンドンで一番安い宿をとることができた。ホテルへの地図もいただき、「フッフッフ最初から大ちゃんに来てもらう必要はなかったやないか」と思いながらふと目を上げると、遠方で怪しげな東洋人が何かを探している様子でウロウロとさまよっていた。それはまさしく□□であった。来る必要がないと思った瞬間に現れるとはなんとも間の悪い男である。大ちゃんをひとしきり罵倒した後私たち4人は、予約したウィルキントンホテルに行くため最寄りの駅であるヴィクトリア駅に向かった。

 

ヴィクトリア駅に着くやいなや目を血走らせた警官らしきおじさんがしきりに何かを叫んでいた。何をいっているのか全く聞き取れなかったので、大ちゃんに彼が何を叫んでいるのか聞いてみたところ、彼はきっぱりと「わからん」といった。近くにいた男に「なにがおきたの?」と尋ねると(もちろん英語でである)、彼は非常に興奮した様子で「Bomb!!Bomb!」といいながら両手で何かが破裂するような仕草をしてみせた。なんとヴィクトリア駅付近で爆弾がしかけられていたらしいのである。あろうことか海外初日にして爆弾騒ぎに出くわしてまった私は、非常に恐れおののき、「外国はやはり恐ろしいところだ。この先旅行中何も楽しいことなんかなくていいから怖い思いをせず無事に日本に帰りたい。」などと考えていたところ、爆弾処理班が格好良く登場し、あっという間に爆弾を片付けてしまった。ばらばらと散っていく野次馬の中に安堵の表情を浮かべる者もいれば、「けっ!つまんねえ」という表情をする不謹慎な者もいた。私はというと、日本でこれをネタにしよう、等と考えながらぼ〜っと歩いていたためごつい兄ちゃんにぶつかってしまったが、きさくな人であるらしく私が謝ると彼は「謝謝!」といって笑って許してくれた。ちなみに彼は中国人ではない。私を中国人と思っての発言である。私はこの事件でここがイギリスであることを強く実感すると共に、「もしこの爆弾騒ぎがイラク問題に関係するものならば、イギリスと同じくアメリカ追従の姿勢をとる日本でもテロが行われる可能性は充分あるわけで、私達にとって遠い国での出来事のように思えるが軽く受け流してよいことではない。この事件を自分の中で話のネタにして終わりにしてはいかん。」などと観光初日の夜に沸々と考えたものである。

テキスト ボックス:  
苦労して着いたホテル 安いがなかなか立派だった


さて、気を取り直してホテルに向かおうとしたのだが、地図がなんとも適当である上、方向音痴ばかりが4人揃ったため、あっという間に迷ってしまった。近くにいた人の良さそうなおばさんに道を尋ねてみたところ、やはり親切な人だったらしくあれこれいろんなことを教えてくれたようだが、私は途中で聞き取れなくなったため後は大ちゃんに任すことにした。彼は普通におばさんと会話できているようであった。「OK! Thank you very much!」と大ちゃんが言い、親切なおばさんは去っていった。私は4ヶ月でこんなにも聞き取れるようになるものなのかと感心し、やはり大ちゃんに来てもらって助かったと思い「すげーな大ちゃん。なんてゆってたん?」といったところ、彼はきっぱりと「分からん。」といった。「・・・」私達は大ちゃんをあてにするのをやめ、さらに2時間程も探し回ったのだが、ホテルは一向に見つからなかったため、少し出費は痛いが結局タクシーで行くことにした。ロンドンのタクシーは丸い車体をしており、ちょっとかわいらしいため、ユキさんは柄にもなく「可愛い!タクシーをバックに写真撮りたい!」などと言っていたが誰も同意する者はなく、タクシーは10分程で私達をウィルキントンホテルまで運んでくれた。ちなみに私達の名誉のために言っておくと、ホテルへの道は結構ややこしくこれは迷っても仕方がないと思われた。降りる時大ちゃんが運転手にチップを渡しているのを見て、初めて私は大ちゃんは本当にイギリスで生活しているんだな、と思った。結局今日彼がしたことといえばチップを渡したこと位である。ホテルに着いたのが12時近かったし、疲れてもいたためホテルに着くなり眠ってしまった。

 翌朝、この日合流するゆかさんをヒースロー空港に迎えに行った後、私と彰太はコッツウォールズへ、ユキさん・ゆかさんは大ちゃんの案内でロンドン観光をすることになった。さてさて、早くロンドンから脱出したがっていた私と彰太は浮き立つような足取りでコッツウォールズ行きの電車に乗り込んだ。私達が何故ロンドンを出たがっていたかというと、二人とも早い話が「都会はちょっと・・・苦手」なのである。これは日本にいる時もあてはまり、つまりはイケてる雰囲気がちょっと合わない田舎者なのである。しかし今思えばロンドンという街は人の多さの割に人と人との親密さが濃いように感じられた。それが何故かは分からないが、少し感じたことはイギリスで「thank you.」と言うことは、日本で「ありがとう」と言うよりも気軽さを含んでいることだ。「thank you.」という言葉は口にしやすい。もちろん[thank you]の語呂がよいことも口にしやすいことの一因であると思う。日本で買い物をし、品物をもらう際に店員さんに向かって「ありがとう。」ということはまずないが、イギリスでは笑顔で「thank you」と言えてしまうのある。う〜むこれも文化の違いか〜、私は小さなことで痛く感動してしまったのであった。

 話がえらく飛んでしまったが、無事コッツウォールズに止まるはずの電車に乗って一安心な私達であったが、イギリスの鉄道を私達はなめていた。ここでコッツウォールズへの行き方を詳しく書くつもりはないが、確かに時刻表にはコッツウォールズ行きと書かれたその電車はコッツウォールズを軽くすっ飛ばし、オックスフォードでやっと停車した。もちろん私達は大慌てである。「どうゆうことやねん!」と大阪のおっさんなら自分が間違えているという可能性を考えずに怒るであろう。しかし私達は大阪のおっさんではないため、駅員さんらしい女性にここからコッツウォールズに行く方法と、何故ここにきてしまったのかを丁寧に聞こうとしたところ、彼女は突然日本語で喋り出した。

「アナタタチー、ニホンジンデスネー!」

「は、はい。そそそ、そうですけど・・。」

「ヤッパリー!カオデワカリマシター!」よかった。というのは、私は夏、渡嘉敷島にいる頃、あまりに顔が黒過ぎたのと、ちょっと顔が東南アジアっぽいことから、日本人にはみえないと言われ「ベトナミン」というあだ名が付きかけていたことがあったのだ。必死で拒否したためにそれは免れたが。つまり私の顔は日本人で通ることをここに証明したのであった。まあ渡嘉敷島にいるときと今とでは黒さが全く違うが。ちなみにベトナムの人のことをベトナミンというのか私は知らない。

「日本語がお上手ですね〜。」

「ワタシ10ネンホド、ナンバニスンデマシター。」

「へ〜。僕らも難波に近いとこ住んでるんですよー。」

というふうに盛り上がり、彼女はここからのコッツウォールズへの行き方、私達が見ていた時刻表は観光シーズンのものであったため、シーズンオフの今は若干異なるということを教わり、非常に感謝しているという旨を日本語で伝え笑顔でお別れした。一緒に写真撮っておけばよかった。

テキスト ボックス: 陽気なニューヨーカーと私コッツウォールズ行きの電車に改めて乗り込むとまたまた素敵な女性と出会った。彼女はニューヨークの医学生でもうすぐ卒業するため、一人旅に出ているらしい。とても陽気な人で、私達が英語を話せないというのもあるが、ほとんど一人でしゃべり続けていた。彼女はイギリスを廻った中ではバースとエジンバラがお気に入りだと言い、是非そこに寄るべきだと鼻息を荒くしていたが、その2都市は有名な観光スポットであり、言われなくてもそこへは寄るつもりだったのだが私達は典型的な日本人であるため、さもそれは初耳だ、というふうなことをいい、後で廻ることを彼女に約束した。こういう風に書くと英語ですらすら会話したように聞こえるが、実はそうではなく、pardon?what’s?を連呼し何度も何度も同じ事を言わせてやっと彼女の言うことを理解した次第である。ここで私は英語の勉強不足のため、とんでもないミスを犯してしまった。というのは彼女がニューヨーカーだというので、私達はニューヨークという街に憧れがある、ということを言おうと思い、

We are attractive to New York!」等とまぬけな事を言ってしまったのである。正しくはもちろん「New York is attractive to us.」であり、私の発言では、ニューヨークにとって私達は魅力的である、という意味になってしまい、ほぼ喧嘩売ってるに等しい。後に自分の間違いに気付いた時は、非常に悔やんだものである。しかもそのちょっと以前に、ハリウッドが日本の武士道を描いた「ラスト サムライ」という映画を制作しており、私の発言は意味深な解釈をしようと思えばできなくもない。彼女はどう捉えたであろうか。今となって気になるところである。そんなこんなで、私は日本に帰ったら英語の勉強をまじめにやることをここに誓ったのである。

 

 

コッツウォールズ

 私達はチェルトナムという町で一泊し、翌日カッスルクームという小さな村に向かった。カッスルクームはガイドブックには、中世の絵画の中へ迷い込んでしまったような錯覚を覚える村と紹介されていた。事実何百年も昔に建てられたらしい煉瓦造りの家々は、柔らかな雰囲気を醸し出していて中世のヨーロッパを描いた映画を思い出させた。確かにカッスルクームは雰囲気のよい村であったが、男が二人で来るところではないかな、というのが私の感想である。


  バース

 バース・スパ駅に着いたのは、夜の8時頃であった。宿がまだ取れていない場合、夜に目的地に着くのは宿探しが非常に億劫である。トラベルインフォメーションが閉まっているため、一番安い宿を歩いて探すことになる。しかしこの日は20分ほど歩き回ったとこをで、あっさり一泊10ポンドのYMCAを見つけることが出来た。日本円にして約2000円である。YMCAやユースホステルというのは旅先で人と出会うには絶好の場所であるらしく、同じドミトリーの部屋だった他の2人が仲良く喋っているのをみて、てっきり友達同士の旅行だと思っていたら、その二人はきのう会ったばかりだそうである。一人はフランス人でもう一人はスペイン人である。私達はその晩サッカーの話で盛り上がった。二人はスペインのバルセロナというチームのファンらしく、やたらと意気投合していた。私は少し書くのは恥ずかしい話だが、この年になってとあるサッカーゲームをやりこんでいたせいで、ヨーロッパサッカーのことに少々詳しくなっており、バルセロナに在籍していた数名の選手を褒め称えたが、そのゲームは若干古いものであったため、その選手はとうに他のチームに移籍していたらしく、バルセロナファンの彼は少々機嫌をそこねたようであった。

 「リバウドはいい選手だよね〜。」

 「・・・彼はもうバルセロナにいないよ。」

 「えッ・・・」

日本語にするとこんな感じだろうか、要するに阪神から巨人に移籍したスタープレーヤーを阪神ファンの前で褒め称えるようなもんである。しかしこの夜は楽しかった。英語で人に話しかけるには初めこそ勇気がいるが、英語での会話は(まだ会話と呼べる程立派なものではないが)私を浮き立たせ、単純にもっと英語を聞けるようになりたい、話せるようになりたいと思わせた。また英語を自在に使えればもっと世界が広がるだろうとも思った。英語の会話は車の運転に似ている。人は交通手段として免許を取ろうとするが、そのうちに運転自体が楽しくなりもっと乗りたいと思うようになる。車の運転も英語での会話も、初めは少し怖いところも似ていると思う。とにかく同じ年頃であるにも関わらず英語能力で他国の二人に大きく負けていた私は英語の勉強がもっと必要だと再確認し、その夜は眠りについた。

 翌朝とんでもない事件がおこった。「寝汗をかいた」と言って朝風呂(シャワーなので風呂ではないが)に入った彰太が、シャワー室でなんと女性のTバックを発見したのである。このYMCAのシャワー室は男女共同なので、彰太の前にシャワー室を使った女性が忘れていったものだと思われるが、Tバックを忘れるとはなんとも大胆不敵である。さすがは外国と言わざるを得ない。同室の私を含む3人はしきりに彰太に獲物を持って帰るよう勧めた。記念だから持って帰れ、だの、お前の前にシャワー室を使っていた子はかわいかった、だの、神様からのプレゼントだ、だの。しかし、彰太はこの旅行の目的は、女の子のパンツを持ち帰ることではなく、女の子本体を持ち帰ることである、ということでパンツは置いておくことにした。二人はそのTバックを欲しそうにしていたが、あるいは人からみれば私も同じように映ったかもしれない。

テキスト ボックス: ロイヤルクレセントとその前の広場 4面で野球ができそうなほど広い朝飯を食べ同室の二人に別れを告げ、私達はバース寺院・ローマ浴場跡・ロイヤルクレセントという3つの名所を廻った。バースは国内随一の温泉地で、「bath room」のbathはこの町の名前から来ているらしい。紀元前75年ローマ軍がこの地に侵入したときに温泉を発見し、アクア・スリス湯治場を作った。スリスとは先住民ケルト人が信仰していた女神のことで、ローマ人は自分たちの治癒の女神であるミネルバとスリスを同一視し、女神に捧げるローマ式神殿を浴場とともに造ったらしい。この湧き出る泉は傷を癒やす力があるとされ、訪ねてくる人が多かったそうである。今は2000年以上前から人々を癒し続けてきた浴場につかることはできないが、湧き出る鉱水を飲むことが出来る。不思議なもので、昔、この水を求めて遠方から旅してきた人がいるのだ、と思いながら飲むと水が全身に染みわたり、力が湧いてくるような気がした。


   ソールズベリー

 遺跡が好きな彰太は、ストーンヘンジがどうしても見たいというのでちょっと寄り道して、ソールズベリーに立ち寄ることにした。ストーンヘンジとはソールズベリーの北約15キロにある、イギリスで最も重要な先史時代の遺跡である。彼はこのストーンヘンジを見るのを非常に楽しみにしていたのだが、ソールズベリーからストーンヘンジへのバスは2時半が最終便であり、私達が駅に到着した3時にはもうバスが無く、日程的に明日エジンバラへ発たなければならないため、今回はストーンヘンジはお預けとなった。彼は今朝のパンツ発見事件による時間のロスを非常に悔いているようであり、「あれさえなけりゃーストーンヘンジを見れたのに」と呪文のように繰り返していたが、私は「さっさとパンツを持って帰りゃーストーンヘンジを見れたのに」と思っていた。

いつまでも落ち込んでもいられないので、気を取り直してイギリス一高い尖塔を持つというソールズベリー大聖堂を見に行った。ソールズベリー大聖堂は外観や内装も素晴らしかったが、何よりよかったのは人々の礼拝を見ることができたことであった。人々の真剣な祈りを見ながらこの人は今何を祈っているのだろうか、等とぼんやり考えていたところ、ふいに男の子がハナクソをほじっているのが見えた。私は不謹慎にも思わず吹き出してしまったが、それでも荘厳な雰囲気の中、人々の礼拝は胸にせまるものがあった。私は特に宗教は持たないのだが、人々の熱心の祈りのなかで、この人達は朝と晩はこうして祈るのが日常なんだな、と思うと、ふと沖縄の星空を見ながら考えたことを思い出した。沖縄にいるとき、浜辺に寝転がって満天の星空に見ていると、自分がこうして生きているのはまさに奇跡だと思った。これだけの星があって、生物が生きられる星はどれだけあるのか、また地球に生命が誕生してからどれだけの確率を超えて自分達が生まれたのか、と考えると生活の一瞬一瞬が大切に思われ、忘れがちな日常の中に豊かさや温かさ、幸せがあるのだと思えた。しかし、普通に生活している時にそんなことをいちいち考えることは少なく、それに気付くのは自分が「非日常」にいるときである。私にとってそれは夏の沖縄バイトであった。そしていま、見慣れない「礼拝」という彼らの日常生活に温かさを感じた。彼等はこれから家に帰り、ご飯を食べるのだな、と思うと、それがとても素敵なことように思えた。そして自分もごく普通の日常を送れることをありがたく思った。日本昔話のエンディングソングのようなことを言っているが本当である。礼拝が終わり、生まれ変わったような気分で立ち上がると、彰太が言った。

「翔、眠そうやったな。」

「・・・・」

やはり、所詮朝にはTバックのことを考えていた頭である・・。これからロンドンに戻り、ユキさん、ゆかさんと合流し、明日はスコットランドに向かう。